2015年12月1日 イラン・テヘラン
私が旅のルートを変更してテヘランに戻った理由
エスファハーンから約5時間かけ、4日ぶりに舞い戻ったのはテヘランの街。テヘランでお世話になったHakanに会うためだ。
彼とは、テヘランを出た後も毎日のようにWhatsappで連絡を取り合っていた。
「もう一度会いたい」
エスファハーンの後は別の町に行くつもりだったが、お互いの気持ちがわかった時、私はテヘラン行きを考えずにはいられなかった。彼の「もう一生会えないかもしれない」という言葉が、余計に私を刺激したのかもしれない。
私の場合、時間とお金があればいつでもイランに行くことはできるが、イラン人のHakanは他の国のビザを取得するのが難しく、行けてもトルコぐらい。ましてや日本に私に会いに来るのは現実的にほぼ不可能だ。
彼は目の病気を患っており、数日後に大きな手術を控えていた。手術後は入院を余儀なくされ、約1ヶ月の間は普通に生活することすら難しい状態だという。「手術が失敗したらどうしよう」と、精神的にもナーバスになっている彼の心の支えになりたかった。
イランでは公衆の面前でいちゃつくことができないのが辛い
テヘランのバスターミナルには、早朝の5時か6時ぐらいに到着した。テヘラン初日に、ふたりで歩いたAzadi Towerの近くだった。SIMフリースマホから、彼に「着いたよ」とメッセージを送った瞬間、胸が高まった。Hakanは、早朝にもかかわらず、約束通り私を迎えに来てくれていた。赤く染まった朝日が眩しかった。
彼は笑顔を作ったが、決してハグしてくれたりはしなかった。イランは公衆の面前で、未婚の男女が手をつなぐことすら禁じられているのだ。ただ「戻ってきてくれて嬉しいよ」と声をかけてもらった時、私はすごくホッとしたのを覚えている。
ふたりで小旅行へ
男女ふたりで泊まれる場所が、テヘランの北のカスピ海の近くにあるから、そこに1泊か2泊で小旅行しようと彼は言った。
彼の友人の家に私の大きな荷物を置かせてもらい少し仮眠をさせてもらった後、彼の着替えを取りに行くため、彼の実家へ足を運んだ。彼の両親とは、テヘランに到着した初日にファミリーディナーに招かれ、そこで一度会っていたので特に緊張はしなかった。
彼のお母さんは私を見るとニコニコして、「いっぱい食べなさい」と、ざくろなどのフルーツをたくさん持ってきてくれた。愛情たっぷりの家庭だ。彼がカウチサーフィンで外国人を助けたりもてなしたりしているのは、きっとこの家庭で生まれたからにちがいないと思った。
婚前の男女の旅行はイランでは許されるはずもない。彼は「数日友達の家に泊まるから」と両親に伝え、私たちはテヘランの北方面へのバスターミナルへ向かった。
バスターミナルでは、思った時間にバスの運行がなく、乗り合いタクシーを利用することにした。私たちの他にもうひとりイラン女性が同乗し、ひとり15ドルほどで約4時間かかったと思う。
途中、休憩でレストランに立ち寄った。
カスピ海近くのヴィラに泊まる
泊まる場所を決めていなかった私たちは、タクシーに乗り合わせた女性の紹介で、ヴィラと呼ばれる一軒家を紹介してもらうことができた。カスピ海から徒歩15分ほどの場所にあるNamakabrudという名の小さな町だ。
私たちが案内されたのは、住宅街にある一軒家だった。テヘランの若者たちはこういう一軒家を貸し切り、男女でこっそり集まるらしい。家族で借りて、1週間なり2週間の休暇をのんびり過ごすという人たちもいると聞いた。(彼らはもしかすると郊外にあるもっと立派なヴィラを借りるのかもしれないけれど・・・ここでは1泊30〜40ドルぐらい)
夜は、近所の商店でパンとチーズ、Hakanが持参したナッツなどを食べながら、ふたりでくつろいだ。まるで酒のつまみのようなメニューだが、こんな田舎ではお酒を入手することも難しい。
待望のカスピ海は・・・
到着した翌日、ふたりでカスピ海を見に出かけた。
私は一緒に居たいと思える相手と一緒に居られることに、しあわせを噛みしめていた。カスピ海の景色よりも、ふたりで一緒に過ごす時間のほうがはるかに重要だったのだ。
あとがき
実を言うと、今回のように世界一周中に旅のルートを変更したのは一度だけではない。それは誰かに会うためだったり、何かに挑戦してみたいという衝動的なものだったが、私はその時の自分の感情を大切にしたいと思ったし、実際そうしてきて良かったと思っている。
Hakanとは、今でも友達として連絡を取り合っていて、この時の思い出を語り合うこともある。カスピ海はきれいじゃなかったけど、あの時はすごく楽しかったね、と。
*以上、2015年11月時点での情報をもとに記事を作成しました。